「…はぁ。クレーマーばかりで嫌になっちゃう」
マキは駅のホームを出た後、帰路についていた。通勤時間は片道1時間。乗り継ぎは3回。毎回、出勤時に2時間も電車に揺られている。 さらに、駅から自宅に向かうまで徒歩10分はかかる。ふと彼女は自分の人生を思い出して、空を見上げた。 夜11時ということもあり、黒色の空に満点の星々が輝いている。秋の風が頬を撫でた。
私はなぜ、こんな夜遅くに帰宅する生活を続けているのだろうか。空虚な気分になる。 マキは2年制の短期大学を卒業後、3年間保険会社に勤めたが、結果的に離職を選んでいる。 なぜなら、マキが入社した保険会社は膨大な勉強量を必要としており、資格取得のための勉強も含めて、給料に見合う仕事とは思えなかったからだ。 家賃や電気代等の支払いによって、常にお金に飢えていた。ストレスが溜まった彼女は、退職届を提出して離職。そして、1ヵ月間無職となった。 その間、少ない貯金を使いこみながらクレジットカードで生活費を賄ううちに『もしこの生活を続けていたら』という想像が頭によぎり、数ヶ月後の家賃が支払えない可能性に気づいたのである。
少し内気な性格のマキが慌てて職探しを行った結果、現在は対面を避けるためコールセンターの仕事に就いている。 つまり、テレビショッピングを介して電話をかけてきた消費者に対して、商品の購入を促す従業員だ。
「対面式の営業とは違って、顔が見えない営業だから…罵倒も多いし辛すぎる」 毎日愚痴をこぼしながらも、マキは2年間この仕事を続けていた。 なぜなら、マキは少々内気な性格のために、対面式の仕事だと緊張してしまい上手くいかないからだ。保険会社で働いていた時に気づいたことである。 また、25歳となった現在、ほんの少しだがセールスが上達している実感があるのだ。最初はギリギリだった『売り上げノルマ』を何とかこなせるようになり、あと何年か続けたら『成績の反映による昇給』の可能性も考えられる。 しかし、彼女は不安を感じていた。仕事は毎日忙しく、平日は常にヘトヘトだ。毎朝出社することも憂鬱に思える。 さらにクレームばかりが印象に残っている上に、お客様から感謝される機会が少ない気がする。 特別好きというわけでもないこの仕事をずっと続けていて、自分は大丈夫だろうか。 おまけに、年齢が上がるにつれかつての友人たちの出世や起業の話を耳にすることも度々あり、「このままでいいのだろうか…」と、自分でもよくわからない焦りも感じていた。
「…転職か、起業でもしてみようかな。今の仕事もいつまで続けられるかわからないし」 マキは漠然と考えながら歩を進める。しばらくすると、彼女の自宅であるアパートの一室に辿り着いた。 ワンルームの狭い部屋。玄関の扉を開けて、さほど柔らかくない布団へ飛び込む。 「やっぱりお布団は最高!さすが、私のオアシスだよねぇ」 マキは、我ながら意味の分からないことを呟いたと思いながらも、枕に顔をうずめながら服のポケットに手を伸ばした。自分のスマホを取り出す。 友人からのメッセージや、動画サイトの通知が何件か届いている。1つ1つ丁寧に確認していく。すると、友人のリサから電話が来ていた。 彼女の身に何かあったのだろうかと心配になり、急いでかけ直してみる。
「…もしもし?リサ、どうしたの?」 ところが、リサと呼ばれた女性の返事はとても明るかった。
『ねぇ、マキ!聞いて!あたし、先月起業してさ。今、時給3,000円くらいなの! ヤバくない?』 「はあ?」 リサは、マキが以前働いていた保険会社の同期だ。 当時から上昇志向が強く、特に給料については、同期の誰よりも評価されて高い収入を得たいと豪語していた。 給料を時給換算する独特の癖があり、昇給の度にその数字に一喜一憂していた姿が強く印象に残っているが、その癖は数年経った今も抜けていないようだ。 てっきり今も保険会社にいると思ったが、どうやらそうではないらしい。
「久々に電話してきて、いきなりお金の話はちょっと」 『ごめんごめん、興奮しちゃって! だって、うちらってあの頃、正社員なのに時給換算で1,000円行かないくらいで働いてたじゃん?マキが辞めてからも私は続けたけどさ、頑張って昇給したって、時給にしたら10円とか20円くらいの微々たるものだったわけ。それが、起業したら一気に3倍だよ?すごくない?』
まくし立てるように言うリサは、興奮が抑えきれないようだった。 リサにとっては、まるで魔法みたいな素敵な出来事を伝えたいというだけなのかもしれないけれど、マキはどうしても、自分の状況と比べてモヤモヤしたものを感じてしまう。